大日方邦子のコラム

ゲレンデの忘れもの 《月刊スキージャーナル 2004年6月号》

最終更新日: 2007/09/18 | Edit

 スキーシーズンがもうほとんど終わってしまった。今年はことのほか、春の訪れが早かった気がする。振り返ってみると、シーズン序盤は雪不足に悩み、予定通りの練習がなかなかできずにじれったい思いをした。ようやく雪が充分な量に達し、充実した練習ができるようになるとすぐ、世界選手権とワールドカップ参加のため、豊富な積雪量の日本を後にし、オーストリアへ。3週間後、帰国した私たちを待っていたのは、すでに春めいた雰囲気のゲレンデだった。その後、ゲレンデは無情にも積雪量を減らし続け、3月最終週には、菅平の山は全体が茶色っぽくなっただけでなく、ところどころ黒い土も顔を出すようになってしまった。本格的な冬はほとんどなく、秋が終わり冬が始まった……と思ったら、いきなり春が訪れてしまったようなシーズンだったように思えて仕方がないのは私だけだろうか。仕事の都合で早くも今シーズンの終了宣言をしなければいけない私は、いささか気が早すぎるのだが、すでに来シーズンが待ち遠しい。

 ところで、春が近づき、山の雪が溶け始めると、ゲレンデにはさまざまな忘れ物が出現する。シーズン中、雪の中に深く埋まってしまい、持ち主から拾うこと、探すことをあきらめられた落しものたちだ。財布、現金、貴重品やストック、グローブなどその多くは、不幸にも持ち主の手を離れてしまったものたちだろう。けれど、リフトに乗りながら線下を覗くと、マナーの良くない客による忘れものが目につくこともある。ペットボトル、空き缶、そしてタバコの吸殻などだ。これらは、アンラッキーに落としてしまったのではなく、持ち主が「捨てる」意図を持って、身から離したものだろう。


 私はリフトに乗りながら、コース外の、シュプールのまったくついていない白銀の世界に、動物の足跡を見つけるのが好きだ。朝一番、リフト下を注意深く見ていると、昨日まではなかった新しい足跡を発見することがある。ウサギやカモシカがこの斜面をどう駆けまわったか、想像するとわくわくするし、ときにはその足跡の主を見かけることもあって、実に楽しい。そんな雪景色が、薄茶色くなるのは、自然の摂理だ。自分の心の中にも「滑れなくなる」名残惜しさと、芽吹きの春を喜ぶ気持ちが同居している。けれどマナーの良くない人間の「忘れもの」によって、山が汚されていると、なんともやりきれない気持ちになる。ゲレンデに来て、スノースポーツを楽しむ人は皆、雪景色を美しいと思うだろう。その美しさを、ゴミを捨てるという行為で台無しにしてしまう人がいることが残念なのだ。


 とくに残念なのが、タバコの吸殻だ。リフト下の吸殻だけでなく、レースのスタートエリア(だったところ)に落ちているのを見かけることもある。スキー板に一所懸命ワックスを塗る人たちの中に、タバコの吸殻入りの雪を滑走しても気にしない人がいる、ということが不思議だ。


 ゲレンデに落ちている吸殻を見ながら、私は世界選手権でのひとコマを思い出した。今回の世界選手権では、キャプテンミーティングの席上、スタートエリアでの喫煙は全面禁止と決まった。そのルールが決まった翌日のこと。競技開始直前のスタートエリアに、スリップクルー(コース整備係)の一群がやってきた。そして、和やかに談笑していた彼らのうちのひとりが、ポケットからタバコを出して、なにげなく口にくわえたのである。すると、そのきっかけを待っていたかのようにように、仲間の数名も次々に吸い始めたではないか。


 次の瞬間だった。アメリカチームの女子選手ふたりが怒り心頭、という様子で彼らに近づいた。そして早口な英語でまくし立てる。「スタートエリアの禁煙はルールで決まったでしょう!」。スリップクルーたちは一瞬ひるんだが、タバコをくわえたまま、二言三言、返事をした。その態度が彼女たちの怒りをあおってしまったのだろうか。女子選手のひとりがいきなり、クルーのひとりの目の前に歩み寄り、その口からタバコを取り上げると、雪の上に投げ捨てたのだ。そして、あっけにとられている彼らに対して「ごみを拾って!」と言い捨てると、その場から去って行った。


 風に乗ってくるタバコの煙をまともに浴びていても、「火を消してください」とお願いする勇気すら持ち合わせていなかった私にとっては、それはそれは衝撃的な出来事だった。タバコの煙や灰が嫌だったのか、ゲレンデでの喫煙が許せなかったのか、それともルール違反に反応してのものだったのか。彼女たちをあそこまで奮い立たせた理由はわからない。けれど、欧米流の自己主張に、ただただ圧倒された一幕だった。


 私は、喫煙することの是非を述べる気はない。けれど、雪山を愛する者としては、吸殻や灰でゲレンデを汚さないでほしいと強く思うし、大自然の中ではできればタバコの匂いをかぎたくはない。